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「 誰か の 言う通り 」


「hito ga hutari」
友勇司氏/酒井真里奈氏

DESIGN FESTA CAFE&BAR にて
期間限定でインスタレーション作品を公開しております。

ご協力下さったのはアートユニット「hito ga hutari」
今回は制作/作品に関するインタビューも交えて、ご紹介致します。

※お二人が2012年にDFGにて展示会をされた際にも、記事を書かせて頂きました。
 コチラの記事も併せてお読み頂ければ嬉しいです。






DESIGN FESTA GALLEY WEST館を出ると
木々やテントに囲まれた、カフェのラウンジがあります。
ここが今回のインスタレーションの会場。

晴れの日は日差しが切れ切れに差し込んで、
雨の日は雨粒がふつふつと流れ込んでくる。


四季折々の天候/気候に触れることができる会場は、
作品にとって最適とは言い難い。

でも、逆に言えばとても繊細な場所。
そして、多くの作家が、来場者が行き交う活気ある場所。

この難しい会場の特性を踏まえて、
多方面から人々にアプローチする、手を伸ばす、作品達。


ここでは、哲学者プラトンの書物がその身を丸め、
枝となり、葉となりて、奥に潜むドライフラワーを育んでいる。

この花、実は背面に設置されたエアコンの排水ホースに根元を収めている。
決して綺麗とは言い難い水源。

植物だけでなく、全ての生命は何らかの栄養を飲み込んで、
生の連続を保つもの。

この花の生の源はどこにあるのか。
排水、泥水をも啜り、生き延びようとして居るのだろうか。

ふと考えてしまった。

栄養を必要としないのであれば、誕生の瞬間から、
死に突き進む存在となるのだから。



すぐ脇にある情景、雫や氷柱を想起させる。

余談ですが、鏡の背面にガムテープを貼り、剥がすと、
鏡面を一部だけ取り除くことが出来たりしますね。

薄らと景色を反射させ、
縦に四本残された歪な鏡面は色濃く、
その場の緑を反映させている。

この情景に私は「取り零す」という言葉を捧げたい。




建物の側面で強く生きる真鍮の花、
重力に抗いながらも必死に天を仰ぐ。

先にも述べたが、
彼らはどうやって生きる力を得ているのだろう。
こんな人工物を苗床にして、
なんで、こんなに過酷な場所に身を置くのだろう。
なんで、こんな場所で綺麗に輝けるのだろうか。




真鍮の花の種は風に乗って、
木々の傍らにも生えていた。

ただ、ちょっと普通の植物と違うのは。
木々から生えるのではなく、
木々の隙間から、傷口から生えているということ。

素材の違いは視覚的にも明らかだし。
この場との強いギャップを生んでいる。



じゃあ、それは野生の生き物達にとって、
排除すべき存在、有害であるのか?

見えるだろうか、捻られた真鍮の幹に、
一匹の蟻が佇んでいる様。
何かを探して、幹を伝い、真鍮の葉を散策している。

何のことはない。
日常生活の延長線上に、継ぎ足されるように、
彼らの作品は存在出来ているじゃないか。

ここは循環しているのだ。



テーブルの上に置かれた黄金の杯。
設営完了時、この杯には何も投入されていなかった。

雨が降れば、雨水が杯を満たす。
風が吹けば、折れた木の枝、葉、花、虫が入る。

ローマのトレヴィの泉のように。
何者かがコインを投じれば、それに習って、
誰かがコインを重ね入れるかもしれない。

偶然の波紋、意図した波紋。
ここは人が行き交う場所だから。
時間を超えて、見知らぬ人たちが、透明な行動に影響され得る。

杯はこれらを発生させる為、促すための装置なのである。
だから、作り手は何を入れなくて良い。


また、この杯/装置は hito ga hutari を象徴する一作であると勝手に思っている。



冒頭にも書いたが、ここは野外である。
複雑な環境変化に晒される。
人が通る、風が通る、様々な意味での通り道。

ここには数種類の生地が裂かれ、結ばれ、場所と結びついている。
写真には写っていないが、ベルも吊るされている。

何かが通れば、これらが揺れて、
何者かの存在を知らせてくれる。


そしてもう一つ吊るされているものがある。
硝子の器、瓶。

上蓋が取り除かれた器は、
杯同様、外部からの侵入を許し、
日々、容姿を変容させる。

その結果に、万人が綺麗とは言わないだろう。
一般的には、汚れるという言葉があてがわれるから。

でも hito ga hutari は「それでもいい」と言う。
「綺麗とか汚いとか、ほころびも全て受け入れたい」と言う。

hitogahutari が制作する作品は、どれも、生きている、呼吸をしている。
また、生きているのだから当然、他者/外部からの影響を多分に受ける存在である。

私達と彼らの作品、何ら変わらない。
作品も、喜びや悲しみ。
感情の全てを受容する器を持って生まれた生き物なのだ。

二人は誰かの傷みを知っている。
だから、こんなにも柔な作品たちを生み出すことが可能なのだろう。

傷み、痛覚は自己防衛手段の一つ。
死を回避する為、生をたぐり寄せる為にある。
だからといって、頻繁に遭遇したくは無い。

しかし、悲しみや痛みは生きる為に、生を味わう為に、必要なもので。
同時に、愛しく、尊いものだと hito ga hutari は解っているから。

二人は制作した作品たちに、
厳しくも、等しい、器を与えた。



(設営初日の様子を写した写真)

二人組のアートユニット hito ga hutari として活動するにあたって、
言い争い、食い違いになることは皆無だという。
しかし、意見の食い違いは勿論ある。
その相違、差異、ささくれはどうなるのかと言えば。

回路に近いのではないだろうか。
お二人の、二つの回路基板を、直列に繋ぐ。
一人が咀嚼したものをもう一人が咀嚼する。
生み出された作品はもう、二人のものだ。

一人で迷ってしまったのならば、もう一人が先を示せばいい。
一人ではできないことが、二人であることで可能になっていく。
これが二人で、ユニットであるべき理由。




さて、触れると少し潰れて、私達の指先を少し押し返す、
お二人の作品が、抱えた疑問と答えについて述べたい。

この場で起きていることは、
全て hito ga hutari の仕業なのだろうか。

- 作家が全てをコントロールし、出来上がった作品、情景なのだろうか?

自分の選択は自分で選べるのか?
それは本当に自分で選んだものなのか?
自分以外の要因があるのならばそれは何なのか?

二人は悩んだ。

そして、二人は、この作品たちを生むことを決意した。
そして、二人は、この場所に作品を置いた。
そして、二人は、この作品たちの全てに等しく名前を付けた。





「  神様の言う通り  」


この作品の名前であり、
この場に向けたつぶやきにも聞こえて来る。

一人で決めたことも、二人で決めたことも、
全ては神様が決めたことで、自分たちの外で決定されたことかもしれない。
しかし、その答えを私達は知ることは叶わない。

「神」や「あなた」の言う通り、にして、誰かに責任を押し付けているわけじゃない。
抗えない流れを認識した上で、二人は芸術家として主張をする。

この数え歌にあわせて、指先が示したこの場所に、
私達は足を踏み入れて、作品を目にし、作品の名前を知り、
やがて、ここから遠ざかる。

ここを起点として、この作品は、鑑賞者の内で、波紋のように広がるだろう。

どこまで届くだろうか、どこまで育つだろうか。



全ての賽は投げられた。
hito ga hutari の手によって。


私たちはそれを受け入れよう。


それが、私の思う" 神様の言う通り "

※8月3日現在も展示公開中です。
ご来場お待ちしております。

(ぱんだ)